八幡神社(1999年2002年)

御祭神  東御前  仲哀天皇 中御前  応神天皇 西御前  神功皇后

応神天皇は、第14代仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた第4皇子で、第15代の天皇です。

当社は、応神天皇(西暦400年前後)と、そのご両親をお祀りしています。

応神天皇:宇佐神宮の主祭神 「八幡(はちまん)様」と呼ばれ神であり仏であるとされた初めての神様。

全国に祭られその数、4万社を数え神社界最大である。

 

応神天皇

『日本書紀に、東国の蝦夷の朝貢があったこと、吉野宮に行幸した折に国樔(吉野川上流の住民)が酒や土地の物を献上したこと、吉備の国を分割・編成して子らに治めさせたことなどが記されている。
・・・国を統一した建国の天皇である。・・・応神天皇母子の時代は統一国家の強化、三韓文化の流入など国家体制の確立していく時期に当たる。 歴史家の多くが応神天皇期をもって歴史時代が始まると説く所以である。』
 (学研 「エソテリカ事典シリーズA日本の神々の事典」茂木栄)

応神天皇は、率先して外国の文明開化を取り入れた、大和朝廷の傑出した文化人指導者である。
・・・応神天皇の治世は、日本に新たな文学、産業などの文化を招来させたすぐれた元首である。すなわち、わが朝廷に使節としてきた百済王の子阿直岐が、文学に精通し、経典を修めていたので、応神天皇はわが子稚郎子の師とした。
ある日、天皇は阿直岐に向かって、「汝よりすぐれた学者がいるか」と問うと、「王仁(わに)と言うすばらしい学者がおります」と答えた。そこで天皇は王仁を招くことを決め、ただちに荒田別、鹿我別の二人を百済に派遣した。
応神天皇の招きに応じた王仁は、百済・新羅から縫工・織工・鍛工、船匠などのすぐれた技術者を伴って来日(西暦400年)し、携えてきた論語10巻と千字文1巻を朝廷に献上したという。王仁はそのまま日本に帰化した。またその頃の大陸は呉の国の時代で、産業・文化にすぐれていたので、応神天皇はこの国の織物・裁縫の技法も導入しようとして、阿知使主、都加使臣の2人を使節として派遣した。呉王は喜んで使節を迎え、その申し入れを受け入れてくれたので、阿知使主ら一行は、養蚕、紡績、織物、裁縫などのすぐれた技術者を連れて帰った。』
 (日本文芸社 「日本の神様を知る事典」)

 

神功皇后

『熊襲反乱の平定の途路、仲哀天皇9年に天皇が亡くなると、神功皇后は天照大神、住吉神等の託宣を得て、三韓の攻略に出発する。 熊襲の背後に新羅が控えていると予想したからである。
戦前の国定教科書(初等科国史)には、「音に聞く日本の船、神国のつわものにちがいないと思って、王はすぐさま皇后をお出迎え申し上げ二心のないしるしに、毎年必ずみつぎ物をたてまつることを、堅く誓いました。・・・この後、熊襲がしずまったのは言うまでもなく、百済や高句麗までも、わが国につき従いました。」とある。
神功皇后が実証史学的に実在の人物であるかどうか証明されていないが、高句麗王の広開土王の石碑文にも倭人を撃退した記述がされている。また、神功皇后の遠征への出発地であった長崎県壱岐島では、全島に神功皇后にちなんだ伝説があり、勝利を祈った北端の勝本には、神功皇后を祀る聖母神社が鎮座している。今でも、壱岐には神功皇后の「足跡」が残されているのである。
皇后は筑紫に凱旋すると、御子を産み落とした。これがのちの応神天皇である。』
 (学研 「エソテリカ事典シリーズA日本の神々の事典」茂木栄)

『九州の熊襲は日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定された後、しばらくは平穏を保っていたが、またまた謀反をたくらんでいるという。当時、朝鮮半島南部に任那という国があって、日本と親交を結んでいた。
任那は、新羅と百済の両国に面し、常に平和を脅かされていた。特に新羅は任那を我がものにしようと画策するがなかなか思うようにならない。そこで熊襲をそそのかせて日本を混乱させて、任那への援助を妨害せんとしたのである。
これを知った神功皇后は仲哀天皇と共に、熊襲征伐への行動を起こした。・・・
熊襲の諸将はことごとく降伏して、第1の目的は達成したのである。かくして次なる新羅進攻の時期を迎えた。いよいよ出陣を決したとき、神功皇后は次のように、全軍に厳しい軍律を課した。
「小敵とても甘んずるな、強敵にもひるむな、狂暴に抵抗するものは許すな、服従するものは殺すな、敗退するものには厳罰を処す」と言う厳しいものである。
かくして全軍が新羅に上陸すると、新羅国王は上陸軍の偉容に驚き、また恐れて、戦わずして降伏した。軍兵はこれをとらえて殺そうとしたが、神功皇后は「軍律のあるのを忘れたか」と、兵士を叱りつけ、新羅国王を救った。新羅国王は深く感じ、「たとえどんな事があっても、永久に朝貢を欠かしません」と誓約した。ここに目的を達した神功皇后は、軍勢をまとめて凱旋したが、まもなく男子を生んだ。品陀和気命といい、後の応神天皇である。』
 (日本文芸社 「日本の神様を知る事典」)

三韓の攻略に出発し、目的を達したことから、戦の神様であるとか、 凱旋中に無事応神天皇をお産みになったことで、安産の神様と言われます。

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